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architecture

City as an allegoryーJunkspace

最近のSANAAつながりを受ける形で、コールハースの”ジャンクスペース”についての一文から、一部を取り出して紹介しようと思う。

コールハースの持つ元脚本家としての<シナリオ構築=自らの方向付け/オリエンテーション>というプロデューサーとしての顔と、建築家としての<興味=創造プロセス>は、密接に絡み合いながらも実は互いを牽制しあう部分を多分に持つ。<シナリオライター>となることで都市の物語性を紡ぎだし、<プロデューサー>として都市の ’抵抗勢力’ と対峙する責任を負い、(あるいは自ら架空の’ビッグ・ブラザー’として君臨し)<建築家>として物語や好奇心を形にする喜びを味わう(振りをする)ーー自ら演じ批判しあうステージセットを作り出し、そうしたぎりぎりのせめぎ合いの中から現在の建築状況(もちろん自らの生み出して来た物語、建築を含め)を寓話化し、わかりやすい形に翻訳することで、より大きな文化的、社会的広がりの中で都市を、建築を批評する。

それ故にコールハースの描く非常にアレゴリカルな(「恋しさ余って憎さ百倍」といえば言い過ぎだろう、批評的礼賛や賞賛といった所か)都市像は、「大文字の建築」を離れた広がりの中に、ポップアート的軽さと近寄りやすさとわかりやすさを持って現れてくる。また彼の生み出す建築はそうした背景を通過した所に生み出されながらも、大文字建築に対するストレートな「建築」解のみならず、立ち位置の異なる、より社会的/文化的な側面からの批判的立場を自らの創造プロセスに繰り入れることで利用し、また作品のプレゼンテーションの観客層と受容層を拡げる(それは「広告」でもあることを彼は意図しながら)ためにもそうした立場を利用する。
それは、表面的には当初モダニズムが採ろうとして大々的に表明した輝くようなプロパガンダに組み入れられていた方法論だ。しかしそうしてモダニズムが提示した楽観的なユートピア像と、それに対する汚れなき信奉をもはやストレートに受け入れることのできない我々現代人にとっては、その方法論を、過去への憧憬とアレゴリーの入り交じった、非常に複雑な感情を抱いたまま、批判的に用いざるを得ない立場にいる。「遅れてきた」客人としての現代人たるコールハースは、そうして3つの顔を駆使しながら、ポップでわかりやすい都市像の裏に、ひりひりするような乾いた辛辣な批評を忍ばせる。

以前妹島和世(西沢)が語ったところによると、影響を受けた建築家としてコールハースをまず挙げていた。90年代で最も衝撃的な建築としてあげた例は、コールハースのパリ国立図書館コンペ案やパリ郊外のラ・ヴィレット公園コンペ案だったように記憶する。これらのコンペ案についてはいつか触れるとして、その建築的な提案と、それを提示するシナリオは、ドローイングやモデルのプレゼンテーションによって圧倒的強さを持っていた。その後の妹島の建築言語とそのプレゼンテーションの端々に、確かにコールハースの影響が見られることは確かだ。

上述のとおり、コールハースの建築が圧倒的に強くかつ面白いのは、彼の描くシナリオがまずあり、あくまでその伏線としての建築物が(またはその逆の)実現される点にある。
しかし、SANAAにおいて、コールハースのアレゴリカルで乾いたユーモアを持つ都市像と批評的見地は、ポップで軽さをもつ部分にのみ強くスポットが当てられ、それを用いたスマートな都市像に読み替えられていく。彼が寓話的に用いた、意図された批評的建築言語の持つ大きな文化/社会的広がりではなく、コールハースのプロダクトのごく一部である実現された建物とその建築言語が、<ポップ>という”寓話的ー批評的軽さ”の概念からニヒリズムや寓話性を消し去った先にある、<シンプル><軽さ>というような流用しやすい感覚とイメージに収束されてしまうのだ。皮肉にも、そこから始まる都市イメージと建築は洗練の度合いを増し、肉体的/感覚的軽さを体現する<もの/プロダクト>としての完成度を高めていく。そうした感覚的な軽さやその先にある洗練は、書院造りから数寄屋へと日本伝統建築が興味を移していった様にまさに酷似している。そうして別種の’潤い’を持ったプロダクト達は、<ポップ>の持つ受け入れやすさの側面とともに増殖しながら、それを求める乾いた社会に吸収され、満ちてゆく。

コールハースは、すでにそれを見越している。彼の寄稿した「Junkspace」という一文から、ある部分を抜粋してみよう。

”Death can be caused by surfeit or shortage of sterility; both conditions happen in Junkspace. (often at the same time) Minimum is the ultimate ornament, the most self-righteous crime, the contemporary Baroque. It does not signify beauty, but guilt. Its demonstrative earnestness drives whole cultures into the welcoming arms of camp and kitsch. Seemingly a relief from constant sensorial onslaught, minimum is maximum in drag, a stealth repression of luxury: the stricter the lines, the more irreesistible the seductions. Its role is not to approximate the sublime, but to minimize the shame of sonsumption, drain embarrassment, to lower the higher. Minimum now exists in a state of parastic co-dependency with overdose: to have and not to have, to own and to crave, finally collapsed in a single emotion.
Junkspace is like a womb hat organizes he transition of endless quantities of the Real--stone, trees, goods, daylight, people--into the virtual”


「’死’は殺菌のし過ぎでも不十分でも起こりえる。いずれの状況も(たいがい同時に)ジャンクスペースでは起こる。ミニマムとは、究極の装飾、はなはだ独善的な犯罪、現代版バロックである。それは美の現れではなく、罪悪感の現れだ。そのおおまじめな態度は、全ての文化を、その到来を待ち受けるキャンプ(俗物趣味)やキッチュにおとしめる。感覚をなぶられ続けることからも、ようやく解放されると思いきや、ミニマムは最大<マキシマム>の足かせとなり、密かに贅沢を抑圧する。線は一段と細緻に、魅力はさらに狂おしく。その役割は崇高美に近づけることではなく、消費のやましさを軽減し、不都合なことを水に流し、レヴェルを落とすことである。ミニマムは今や、過剰投与に寄生、依存する形で存在する。要するに、持つことも持たざることも、所有することも要求することも、結局は同じ感情に陥る。ジャンクスペースという名の子宮では、無数のリアルなものーー石ころ、樹木、商品、日光、人々ーーが、ヴァーチュアルなものに変異し始める」
(OMA@work.a+uより抜粋)




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